小指標本

地に足つけていては出会えない誰かと出会いたい

初心が「ただいま」と言ったので「おかえり」と腕をひろげてみた

世界中の誰もが見ることのできるインターネットの海に、どこまでの個人情報を流していいものか私はまだとまどっている、し決めかねている。

けれども今日思ったことは、嘘をついて伝えたいことではなくて、できるだけ本当に、現実を生きて質量を持つ私で、忘れないように、こっそり、でも高らかに世界に宣言したいことだったので、書く。

 

私は今、とある地域で医学生をしている。

高校二年生までは、美大を志望していた。

高校三年生と一年間の浪人という受験の期間は、まるでほの暗い樹海で同じところをぐるぐるまわるように、毎日、散々、堂々巡りを繰り返しながら、自分が医学生になることを、自分に納得させるための日々だったと思う。

それだけ思想の海に沈んで考え抜いたのに、最近また「私はほんとうにこれでよかったのだろうか」「私はたしかに医者になれるのか」という不安や後悔のような、薄暗い生き物にからめとられていた。

今日は大学で行われている、映画を見てその題材になっている病気について勉強をする会に参加してきた。私はこれがお気に入りで、時間が許せば参加している。

今日は、「博士の愛した数式」だった。

本を読んだ時にもいたく静かでひたひたとしあわせな気持ちにいたった幼い記憶があるけれど、映画もとても丁寧に作られていて、なんでもないようなシーンが胸に火を灯した。

映画が終わったとき、あの手探りの日々に辿りついたひとつの初心が、ほとんど変わらない風貌で「ただいま」と顔を見せた。

なので私は、「おかえり」と腕をひろげてみる。

それはきっと、また暗いほうへ足を踏み出して、自分からさ迷おうとする今を、肯定して、ひきとめて抱きしめることになるだろう。

 

忘れないように、急いで書いた。

根がロマンチストなので、すぐポエムのようになってしまう。

自分のために、また迷わないように、忘れないようにここに残していく。

いまだ現実を知らない学生の書く綺麗言だけれど、こういう思いで医者を目指してる人間もいるんだなって誰かが安心してくれたなら、うれしい。

 

 

私は弱い人が好きだ。
弱い人がほとほと好きだ。
弱い人は、その分の優しさを持っているように思えるから。
弱い人は、その分なにか豊かなものを、持っているように思えるから。
あなたがいる、それだけでいい。
そう言える才能を持っているように思う。
あなたがいる。それだけでいい。
弱い人に向かうとき、自然とそう言いたくなる。
そう言ってなにかその人のために、してあげたくなる。
それは、この世の真理だと思うのだ。
ひとはひとりで生きていけるわけではないから。
思いやって助け合って、そのひとがあるがままあることを認め合って受け入れて、そうして愛や優しさのようなものを与えあって、交換して生きていくものだと思う。
あなたはしあわせになっていいんだよ。
あなたが、私はしあわせになってほしい。あなたを、しあわせにしたい。
そう、私は弱い人の耳元でささやき続けたい。髪を梳いて、よしよしと頭を撫でたい。
自分がしあわせになってはいけないと罰し続ける弱いあなたへ。
自分の至らなさにおびえて、誰かに迷惑をかけることに、身を硬くする弱いあなたへ。
そのあなたの弱さは、やわらかさを生んでいるのだと伝えたい。
やわらかく在ることは、あなたがかたくなに見つめて愚かだとなじるその一面を反対側から見たとき、ひっくり返って、わるいことではなくなるのだと、あなたの弱さに私は救われるのだと、あなたの弱さは、とても素敵なことなのだと伝えたい。
弱いとは強いということなのか、どうかは、私は確かに、言うことはできない。
でも、弱いとは優しいということだと私は思う。
私はあなたに優しくしたい。
そうすることで、私が受け入れられないで傷をつける「私」、優しくされるのだ。
あなたによって、私は癒されるのだ。
私はあなたと、優しくしあいたい。
これは個人の嗜好だから、強くて、健やかなひとたちを、愛するひとは、それでいい。
多様性がない世界は息が苦しい。
でも私は、こどもや、お年寄りや、鬱気味の思春期の少年少女、障害を持つひと、くるしい思いをしているひと、かなしい思いをしているひとが好きだった。
そのひとたちと共にあり、共に生き、優しくしたいと思った。
私は、そう願う私のことは、穏やかな愛しいまなざしでむかえ、あたたかなひとつの体温で、手をとれると思った。

 

 

 

九月二十二日 小指